2012年度 あいどるとおく

 

9月号 「SWEET MEMORIES

今年の夏も暑い日が続きました。
暑さは苦にしない私でも、さすがに猛暑となるといささか応えます。
かといってエアコンをかけるのも気が引けて、手近にある団扇を片手に過ごす日がありました。
そんな時、ふと「夏炉冬扇」なんて言葉と同時にある懐かしい風景がよみがえってきました。

大学で初めて受けた専門の授業。
先生が話されることは私にとっては初耳なことばかり。
なんだか新しい世界に飛び込んだような、あっという間にかしこい人になれたような、そんな興奮を感じていました。

その授業は先輩方も受講されていましたが、ずっとふんふんと頷きながら聴くばかりの私と違い、皆さんはいろいろと質問をされたり意見を述べられたり。
そうしたお話にも私はいちいち「へえ、そうなんや」と感心するばかり。
だんだん何が何だかわからなくなる中、あっという間の90分が過ぎてしまいました。

混乱している私をよそに議論は白熱し、授業は延長となりました。
先生は笑顔で、「場所を変えて続きを」とおっしゃり、一同近くの喫茶店へと向かうことに。
そのお店の名前が、「夏かろ爐(炉)」でした。

そこでも延々お話が続き、ようやく一段落した頃、感想を求められました。
「先生方がお話しされていたことは、僕にとっては知らないことばかりです。
聴いたこと全てが真実に思えて、たとえ間違っていても信じてしまいそうです」と答える私に、ある先輩が、「私は人が言ってることは、まず『それ、本当?』って考えます。
どれもこれも自分で調べてみないと信じられません」と返してくださいました。
先生は、ニコニコされていました。

あれからもう30年。
この思い出とともに、大学で教えていただいた「事実に基づいて確かめ、自分で判断すること」は、私の生き方として大切な大きな一本の柱となっています。

最近、そうした私の拠り所を創っていただいた母校が統合でなくなるという寂しい話題とともに、伝統芸能への補助金の打ち切りや人権博物館の閉鎖といったニュースが飛び交っています。
一度無くしてしまうと再び興すにはとてつもないエネルギーが必要となります。
伝統や人権など、見ようとしなければ見えないものの中にある多大な価値を大切にしなければ、まさにその場限りの「夏炉冬扇」を生み出す寂しい世の中になりはしないかと思うのは私だけでしょうか?

※夏炉冬扇…時期はずれで役に立たない物事のたとえ