21世紀は、どんな世紀になるのか、様々な予想がたてられています。
今からちょうど百年前、留学先のロンドンでビクトリア女王の死去に接した夏目漱石は、「今世紀は、不幸な世紀になる」と呟いたそうです。20世紀は、人類にとって多くの教訓を残した時代であったことは間違いありません。
今、科学が飛躍的に発展し、遺伝子操作やDNAの解読、クローン人間等、言わば「神の世界」に先端科学は入ろうとしています。
科学の発展と共に、医療技術の進歩にもめざましいものがあります。例えば、ヒトゲノムの解読が進めば、どのような病気にいつかかるのかも分かるそうです。さらには、「命」を永らえることも可能になってきています。
こうした時代にあって、人としての最期をどのように迎えるのか、人権という視点にたって考えたいと思います。
突発的な事故や災害等で命を落とすことを除くと、今日では、医療器具に囲まれ、多数のチューブを体内に入れられ、意識のないまま「命」を保ちながら最期を迎えるのか。それとも、その「時」が寿命として、延命措置をとらず、最後に「息を吐く」一瞬を、家族や知人・友人に看とられて、最期を迎えるのか。選択が迫られます。この選択は、どちらが正しいというものではないことは、言うまでもありません。
近親者の最期と出会いました。「生」「死」のはざまでゆれ動く「命」と接している中で、ある日意識を失ったことがありました。再び意識を取り戻したとき、「薄青い空と大地の間を、一人で歩いた夢を見た」と話してくれました。意識を失っている間、様々な医療が施され、家族は名前を呼びつづけていました。
数日後、その近親者は、「あのままいけたらよかったのに」と、呟きました。だから、次に「お迎え」があったときはそのままに、と思いました。
ある末期癌の患者の詩を紹介します。
『生死』 死というものを 自覚したら 生というものが より強く浮上してきた 相反するものが 融合して 安らげる不思議さ‥‥
「生」と「死」、21世紀の人権教育の最も重く深いテーマだと思います。