先日、20世紀最後で最大の「会談」が行われました。大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国との間で行われた「南北首脳会談」です。ソウルから配信される情報が、日本のマスコミを通して伝えられました。また、在日韓国・朝鮮人の人々の喜びの声が、テレビや新聞で報道されました。
しかし、こうした報道の中に、現在の対立と分断の大きな原因をつくり出したのが、日本の植民地支配にあることを報じているのはわずかでした。一人の日本人として、加害の責任を改めて自覚するとともに、この歩みが止まることなく、平和的統一が実現することを心から願います。
一方、国内では、少年犯罪が続いています。そして、少年犯罪に関わらず、犯罪被害者の人権が大きく取り上げられています。愛する家族の命を奪われた人々にとって、加害者への憎しみや持っていくところのない怒りは、計り知れないものだと思います。被害者の思いが反映される陪審制度が、今後論議されるかもしれません。
ところで、強盗殺人をしたある死刑囚の歌が、テレビドラマ「金八先生」で紹介されていました。それは次の歌でした。
少年期さかのぼりゆき憶う日をはてしなく澄み冬の空あり
死刑囚となりて思えばいくらでも生きる職業ありと悟りにき
土ちかき部屋にうつされ処刑待つひととき温き命愛しむ
この歌を詠んだのは、島秋人という歌人です。彼は、幼少期満州で育ち、戦後父母とともに日本に引き揚げてきましたが、すぐに病気で母を亡くします。彼自身も病弱で結核等にかかり7年間もギブスをはめて育ちます。小学校や中学校の成績は、一番下だったと言います。なかまからうとんじられ、性格がすさみ転落の生活が始まりました。少年院にも入れられた経験を持つことになります。’59年雨の夜、飢えに耐えかねて農家に押し入り、二千円を奪い、争ってその家の人を殺し、死刑囚として獄につながれることになります。
彼が中学校の頃、たった一度だけ誉めてくれた先生に、獄中から手紙を出したことがきっかけとなり、ひめられた「うた」の才能の扉が開かれ、歌を詠み続け、死刑執行が迫った時に詠んだ歌が、先に紹介したものです。
生と死のはざまで詠まれた歌を通して、「命を」「死を」そして「生きることを」深く考えさせられました。
彼は、死刑執行の日に次の手紙を、被害者の家族に送っています。
長い間、お詫びも申し上げず過ごしていました。申しわけありません。本日処刑を受けることになり、ここに深く罪をお詫び致します。
最後まで犯した罪を悔いて居りました。亡き奥様にご報告して下さい。私は詫びても詫び足りず、ひたすら悔を深めるのみでございます。死によっていくらかでもお心の癒されます事をお願い申し上げます。申しわけない事でありました。ここに記しお詫びの事に代えます。
みな様のご幸福をお祈り申し上げます。
彼が通った小学校や中学校に、彼の憂いが分かる先生がいたら、確かな同和教育があったらと思います。そして、自分の命も他者の命も、「愛しむ」人権教育の構築を急ぎたいと思います。