人権教育に「権利を得ることは、責任を負うこと」という教育内容があります。
教育改革国民会議は「中間報告」の中で、「戦後の日本の教育は、『他人と違うこと』『突出すること』をよしとしなかった。しかし、『誰でも同じに』では、結局、一人ひとりの個性の発揮を停滞させ、ひいては社会を牽引するリーダーが生まれなくなってしまう。また、違いを認めないということは、平等を重んずるのではなく、むしろ、教育に携わる者の責任感と勇気の欠如を示すものではないだろうか」と述べています。
かつて、同和教育の取り組みに対して、その真意を理解されず、一面的な見方によって、「権利ばっかりで、責任を語らない」「競争をさせないで、個性が伸びるのか」という声が一部にありました。
ところで、十月から十一月にかけて、県内各地で公開授業研究会や指定研究発表会が開催されました。なかでも、新教育課程の移行期で、「総合的な学習」の取り組みが数多く提案されました。
いくつかの公開授業に参加して、子どもたちが主体的に学習する姿が印象的でした。そして、何よりも大切なのは、その学習する雰囲気だと思いました。
子どもたちが、自らの興味・関心に従って学習を進める「権利」を得ることによって、一方で自己評価する「責任を負う」ことを学んでいるように見えました。
人権教育は、学習過程や環境、雰囲気の中にある「隠れたカリキュラム」が重視されます。先月の国会における出来事、更には戦後処理のあり方等、日本の政治状況には、先の教育改革国民会議の文言が重なってしまいます。そして、こうした現実は、子どもたちが「権利と責任」を理解するには、おそまつな「隠れたカリキュラム」と言えないでしょうか。