六月、これまでの学校では考えられない事件が起こりました。亡くなられた八人の子どもたちの無念さや、家族の思いを想像すると胸が割かれます。
亡くなられた子どもたちに、謹んで哀悼の意を表しますとともに、ご遺族の方々には心よりお悔やみを申しあげます。
この事件の解明は、まだ時間を要すると思いますが、社会に与えた影響は、余りにも大きなものとなりました。それは、マスコミが報じているように、「この事件は、『学校の安全神話』の崩壊を意味する」ことと、「精神障害者」への対応を社会問題とさせたことに代表されます。
事件当日、午後6時台のテレビ報道では、容疑者は「三十代の男性」と報じていました。これを見ていた私は、ひょっとすると「障害者」が容疑者で、実名報道を避けているのかと思いました。ところが、ある報道機関だけが、実名で報道をしていることに気づきました。そして、午後9時台以降の報道は、すべて実名で容疑者が紹介されていました。次には、顔写真も報道され、容疑者の過去の「経歴」も紹介されるようになりました。しかし、当時は一貫して容疑者を「精神障害者」として扱っていました。
まず、容疑者が「精神障害者」とされている時点で、実名はもちろん顔写真まで紹介した報道のあり方です。八人もの命を奪った容疑者を擁護するつもりはありませんが、この報道のあり方は問題だと思います。余りにもひどい事件が、報道をこのようにしたと容認されるかもしれません。しかし、この報道によって、「精神障害者」への偏見が助長されたことは、明らかです。更に今後、「精神障害者」の犯罪の再発を防止するための施策(「隔離」)が行われようとしています。
次に、学校内での殺傷事件ということで、安全管理が問われていることです。ある学校では、学校に出入りする一人一人をチェックする体制をとったそうです。各地の教育委員会や学校では、このような対応をはじめ、さまざまな対応策が練られています。日本の学校は、このような事件を想定していない構造やシステムになっていないことが、対応策を考える上での壁になっているようです。
この事件を通して、私たちが学ぶことは何でしょうか?
さまざまな視点で考えなくてはならないと思いますが、ここでは、地域コミュニティーについて考えたいと思います。
学校の安全が脅かされるということは、すでにその地域の安全は保障されていないという証明でもあります。地域における人権確立は、まずは安心して安全にくらせる社会づくりからです。地域の安全は、保安体制も大切でしょうが、自律した個人の集合体としてのコミュニティーの構築が必要です。これまでの「ムラ社会」ではなく、お互いを対等に認め合う関係づくりと言い換えられると思います。そこには、「障害者」や外国人等、さまざまな人々との関係も存在します。このことがまずあげられると思います。
次に、学校と地域との関係を更に密接にしていくことだと思います。奈良県人権教育研究会は、中学校区に「人権教育推進委員会(学校協議会)」を設置して、学校と地域の連携を更に強めることを提起しています。学校と地域の日常的な情報の交換はもちろんのこと、お互いがネットワークとして結びつき、学校を含む地域の教育力を高めようというものです。
この事件から学ぶことは、学校の壁や人と人の壁を高くすることではなく、むしろ低くして、共生の地域社会をつくる営みではないでしょうか。時間はかかるでしょうが。