「パレスチナ人による『自爆テロ』」という報道が続いています。
こうした報道を目のあたりにして、「自爆テロ」実行犯と50数年前の太平洋戦争における日本の「特攻隊員」がどのような思いで「自爆」行為をおこなったのか、また、それぞれの家族はどのように受けとめたのかということを考えてしまいます。 パレスチナの「自爆テロ」実行犯の家族は、「息子は正しいことをした」「彼は、私たちの誇りです」「ぼくも大人になったら、兄のように勇敢な行動をとりたい」と、語っています。
一方、「特攻隊」として息子を亡くしたある母の思いを、吉武輝子さんの『死と生をみすえてー娘あずさへの手紙』(岩波書店)から紹介します。
ある軍人一家では、続けて三人の女の子が誕生します。しかし、喜ばれることはありませんでした。そして、四人めにようやく長男が誕生しました。母は「長男が生まれたときからわたくしは、決心していました。この息子を舅や夫や親類縁者のだれよりも、抜きんでたすぐれた軍人に育てようと。そうすることが、軍人一家の本家の長男の嫁の義務である。」と信じて疑いませんでした。
それから20数年後、長男は海軍将校となって太平洋戦争に出征します。’45年2月、長男は最後の挨拶に帰宅しました。母は、長男の前に先祖伝来の短刀を置き、「虜囚の辱めを受ける前に、潔く自害せよ」と言い渡します。その母に長男は、まるで上官に対するような挙手の礼をし、そのまま一度も後ろを振り返ることなく出発していきました。長男を見送った母は、「わが子との永遠の別れを悲しむ思いよりも、母と子いずれもが、国存亡のときに、各自の本分を守り抜いたという満足感で、恍惚とさえしていた」といいます。
それから7日後、長男が率いる特攻隊玉砕のニュースが報じられます。「後に続く者を信じる」という遺書が、母に届けられました。 そして、敗戦。しばらくして、長男の戦友が手紙を携えて訪ねてきました。そこには、ただ一行、かすかな震えの見える文字で、「僕はただ、母さんに抱いて欲しいと願っていただけなのです」と書いてありました。
母はその場で文字通り、慟哭したといいます。 母はその後、「特攻」の残骸を求めて南の島々を行脚してまわったということです。
少し長い紹介となりました。
戦争は、人が人として生きることを許しません。「祖国のため」という大義名分のもとに、個人を埋没させるとともに、理性と良心を失わせてしまいます。
「特攻」と「自爆テロ」は、時代も社会背景も全く違いますが、50数年の歳月を越えて日本の母とパレスチナの家族の本当の思いは、重なるように思います。同時に、「自爆テロ」実行犯と「特攻隊」の青年、また「報復措置」として、パレスチナに侵略しているイスラエル軍の人々の思いも重なっていると思います。 二千年前、古代ローマのカエサルは、宗教・民族・文化を乗り越えてローマを統一するために、「寛容」な態度を最も大切にしたといいます。「違いを受け容れる。相手を受け容れる」ためには、「寛容」な態度がまず求められるからでしょう。
憎悪に憎悪が重なり、いつ果てるか分からないイスラエルとパレスチナとの紛争を終結させるのには、「寛容」な態度が必要ではないでしょうか。
「寛容」な態度は、共生社会建設の必須の条件だと思います。