子どもの頃、いろんなことに興味をもちました。小学校3年のころは石ころを拾ってきて毎日のようにサンドペーパーで磨いていました。4年生の夏には昆虫採集に夢中になりました。お決まりのように切手集めにも数年間はまりました。5年生頃は、みんなで不十分な道具を持ちよって田んぼや学校の運動場で三角ベースやフットベースボールに明け暮れました。その当時の多くの子どもたちが将来の夢として「野球選手」を挙げていました。わたしもそうでした。でもその夢は実現せず、また興味をもって始めたものもほとんどが中途半端で終わりました。何一つ続けられたものはありません。意味があるからではなく、おもしろそうだからという理由が子どもの体を動かします。もっとおもしろいことがみつかると、今までのことは忘れてしまいます。子ども時代はそういうもの。途切れ途切れだけれど、ふつふつと沸き上がってくる興味が、子どもの心と体を育ててきたのだと思います。
先日、県教育委員会が小学校5年生と中学校2年生の子どもたちに実施した家庭教育に関するアンケート調査の結果を公表しました。「自由な時間の過ごし方」について、スポーツなど「外で遊ぶ」と答えたのは小学校5年生で32.3%、中学校2年生で15.8%。また、「一人で過ごす」は小学校5年生で 55.1%、中学校2年生で65.3%でした。
一人でテレビを見たりやコンピューターゲームをしたりして過ごすことが多い休日や帰宅後の姿が見えてきます。また、中学校2年生では「ねる」と答えた子どもも6.0パーセントいました。現代の子どもたちの興味は何に向かっているのでしょうか。
ところで、本年は「国連識字の10年」の1年めにあたります。日本における識字の取組は、’60年代に福岡県の産炭地域で始められたとされています。そうした福岡県の識字学級にかかわってこられたある先生の手記が、’65年7月25日付の『同和教育』に掲載されていました。「(前略)餅の絵をかいて、よこにもちと書いてよませた。よみきらない。よんだものがなんとおかがみ・・・であった。おかがみは四字である。もちは二字である。例え字は知らなくても二字であるぐらいはわかるだろう。そうなれば、もち・・・と想像はおよそつくだろう、と考えるのはわれわれ教師の勝手な想像である。字を知らないという苦しみ・・・それは貧困ということを知らずに正常な生活で教育を受けて、今日に至った教師のあまりにも身勝手な常識であった。(後略)」
半世紀前、同和教育は教室に顔を見せない子どものくらしを知ろうとする営みから始められました。部落の子どもたちの長期欠席・不就学の状況を怠惰や親の無理解と切り捨てることなく、地域や家庭に出向き、事実を捉えようとした先達の取組から始まりました。言わば、教育にかける情熱と共に、子どもたちに対する愛情と興味が取組を後押ししていたと考えます。
21世紀、さまざまな教育課題が示されています。そんな中、私たちの興味は子どもたちと子どもたちのくらしに向いているでしょうか。