最近、自分の子どもが少しずつ字が読めるようになってきて、一緒に外を歩いていても、広告などの読める字を見つけては、「あれ○○○○って書いてあるんやろ」とうれしそうに話します。途中にわからない漢字が入っていても、前後の関係で読んだりします。それでもわからない時には、「あの字はなんて読むの」とうるさく聞いてきます。字を覚えることで、子どもなりに自分の世界が少しずつ広がっていくことを楽しんでいるような気がします。
このごろ自分にはそんな感覚がなくなってきたなぁと思っていたのですが、そういえばコンピューターを買って使い始めたときはそんな感じがありました。
はじめは使い方が全然わからなくて、次に進むことができず、堪能な友だちに電話をして聞くのですが、らちがあかず、夜中にデスクトップのパソコンセットをすべて持っていき、教えてもらったこともありました。そこまでして行ったにもかかわらず、「このキーを押したらいいだけや」と言われたときは恥ずかしいやら、情けないやら…。でも何とかパソコンが使えるようになり、インターネットで買い物をし、注文したものが自宅に届いたときは本当に感動しました。何か自分の世界がとても広がった思いがしました。
先日そのインターネットでベネッセ教育総研が実施した「学力向上のための基本調査2004」の結果を見ていると、気になる項目がありました。「学ぶ基礎力」に関するアンケートの中の「勉強して身につけた知識は、いずれ仕事や生活の中で役に立つと思う」という設問に対して小学校4年では74%、実に4人に3人の子どもが『とてもあてはまる』と答えているのに、小学校6年では50.1%で2人に1人、中学校3年では25.2%で4人に1人となっています。学年が進むにつれて、学校などで学んだことが実際のくらしとつながっているという実感が持てなくなってきている様子がうかがえます。そのことは「勉強して、わかったり、できるようになったりすることがうれしい」という設問についても同様に、『とてもあてはまる』と答える子どもたちが学年が進むにつれて減っていくことにもつながっていきます。
中国の思想家である筍子は、「学ぶ目的」を「窮して苦しまず、憂いて心衰えず、禍福終始を知って心迷わず」と言っています。
これは、「困ったことが起きても、しっかりと問題を解決し、悲しさや辛さに負けない強い心、そして順調なときも災いが起きたときも、しっかり生きていく力をつけるため」という意味です。
今、子どもたちは勉強することの意味をどのようにとらえているのでしょうか。