人権エッセイ集

2004年度 アイドルトーク 02

6月号「自己責任」

イラクで人質となっていた高遠菜穂子さんが、解放から約1ヶ月後、自宅で記者会見を行いました。拘束中の恐怖を思い出しながらも、イラクの状況を考えたとき「今こそ武器を持たないNGOを中心とした人道支援が必要だと思う」と訴えました。また「必要なことは戦争を恨むことより、人を愛することだと思う」と語りました。

この人たちがやっと解放され帰国した時、日本では、「危険なところへ勝手に行ったのだから自業自得だ」「多くの人に迷惑をかけたことを自覚してほしい」「山の遭難では救助費用は遭難者や家族に請求することもある」というような「自己責任」を問う意見が、マスコミなどを通して大きくなりました。元官房長官も「自己責任とは自分の行動が社会や周囲の人にどのような影響があるかをおもんばかることで、NGOや戦争報道の役割意義という議論以前の常識にあたることだ」と強い口調で語りました。

確かに、自分の行動にそれぞれが責任をもつことは大切です。自分の自由や権利を主張するには、自分の責任・義務そして他人の権利を侵さないことが求められます。「不可侵、不可被侵」=「(他を)侵してはいけない、(自分を)侵されてはならない」という言葉が解放運動や同和教育の中にはあります。

一方で同和教育は、「自己責任」論を越えた取組でもありました。半世紀前、奈良県内の中学校での長期欠席率が5.5%だった時、被差別部落の子どもたちのそれは34.5%でした。要録にはその理由として、多くは「本人の怠惰」「親の教育無理解」と記されていたそうです。しかし私たちの先達は、安易にこうした結論に納得せず、子どもたちのくらしをとらえる努力を始めます。地域・家庭に足を運ぶ地道な取組を進めます。その中で、厳しい生活の実態を知り、その奥にある部落差別の存在に気づいていったのです。「今日も机にあの子がいない」を合言葉に地域・家庭に足を運ぶ実践、そして「差別の現実から深く学ぶ」という大原則は、教育の不平等を子どもや親の「自己責任」に終わらせない取組の大事さを示しています。

「自己責任」を強調することは時として、できる者の論理を上から押し付けることになります。どんな人にも「自己責任」では解決できない時があります。また課題によっては「自己責任」では克服できない人もいます。そんなときに支えあったり助け合ったりできる暖かさや、共感できる優しさを人権教育の中で育みたいと思います。

ところで、「自己責任」論を展開していた永田町の人たちは最近静かになりました。そういえば、国民年金の切り替えや掛け金の支払いは、それこそ「自己責任」で行うものですよねえ。

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