神戸市内のとあるビルの中で、‘45年3月17日未明に起きた「神戸大空襲」の展示がされていました。「鉄兜」や衣服などの遺品の間には数点の手書きの手記が置かれていました。焼夷弾が次々に落ちてくる中を兄弟で逃げ惑った様子や目の前で町中が燃え上がっていく様子などが生々しく綴られていました。住んでいた人の数だけ恐怖や悲しみがここにもあったのだと思いました。
当時の言葉ですが、トウカカンセイと聞いて「灯火管制」の文字がすぐ浮かぶ人はどれぐらいいるでしょうか。灯火管制とは、警戒警報が出ると電気に黒い布をかけたり、窓に黒い布を張ったりして光が外に漏れるのを防ぎ、爆撃の目標にならないようにすることです。そしてこれは、当時の法律によって国民や自治体の義務として厳しく規定されたものでしたが、照明弾やレーダーを用いた米軍の空襲を防ぐ効果はなかったといわれます。それよりも、灯火管制は「敵機」に対する共通の作業を通して、国民一人一人に自分も戦争をしているという意識をもたせることがねらいであったとも言われています。
さて、戦後60年が過ぎ、子どもたちはもちろんのこと、教職員のほとんどが戦後生まれとなり、教育現場のほぼ全員がこうした戦争を実体験として知らない世代となりました。池田澄子さんの句に「前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル」というのがありますが、これを読んで具体的事実としてどんなことが頭に浮かび、語れるでしょうか。「忘れちゃえ赤紙神風草むす屍」の句に対しては、「忘れてはいけない」ときちんと反論ができるでしょうか。
私たちはさまざまな機会を通じて事実を知る努力を続けたいと思います。そして、戦争の事実と戦争を許さない生き方を次の世代に伝えていくことをあらためて決意したいと思います。戦後60年めの夏を迎えて・・・。