落語に「壺つぼざん算」というお話があります。壺を買いに行った客が商売人をまんまと言いくるめて大幅な値引きをさせるという詐欺まがいの内容ですが、小気味好い客の語りが笑いを誘います。
壺を買うのは、水壺が割れたからなのですが、その割れる場面で壺の持ち主の嬶かか(妻)がこう言います。「壺が割れたやなんて、験げんの悪いこと言いなはんな。割れたんと違います、数が増えたんだす」
日本語には「忌み詞」といって宗教的な理由や縁起をかついで使うのを避ける言葉があります。「するめ」は「する(お金を使い果たす)」に通じるので「あたりめ」と言い換えます。お正月の鏡餅も「割ら」ずに「開く」のです。
先日、そんな「割る」にかかわるぞっとするような記事がありました。ある小学校の算数の時間に「子どもが18人います。1日に3人ずつ殺します。何日で殺せるでしょう」という割り算の問題が出されたというのです。子どもたちはどんな思いで問題を解いたのでしょう。その後、この先生が、以前騒いでいる子どもたちに対し、「みんなが言うことを聞かないので、(みんなを)殺す夢を見た」と注意していたという報道もありました。子どもたちの気持ち、子どもと先生の関係、そして先生の心は、まさに粉々に割れてしまっているように思えてなりません。
子どもたちはいろんなことを感じながら、教科・領域を問わず今という時を過ごしています。「今、この子は何を思っているのだろう」そんなふうに子どもの気持ちに敏感であることが問われている、この事件です。同時に、様々な思いを抱えて日々を送る同僚との関係が割れてしまっていないかも問われているような気がします。
「割る」は「分かつ」に通じる言葉です。独りでは「分かつ」ことはできません。「喜びも悲しみも分かつ(=共有する)」関係が教室や職員室にあれば、先のような問題は出されなかったでしょう。
「割る」は「離す」と結びついてなかなか好いイメージには捉えにくいところがあります。でも、「分かつ」と読み換えると違った響きが聞こえてきます。
嬶みたいに「数が増える」というイメージで、みんなで「分かつ」ための割り算を学べたら……。
それってすてきなことだと思いませんか?