人権エッセイ集

2017年度 あいどるとおく

3月号「父と戦争」

昨年6月に十三回忌を終えた私の父は1923年生まれで、太平洋戦争真っ只中の1943年に20歳の徴兵検査を迎えました。しかし、父は戦争には行っていません。幼いころにポリオ(当時は「小児麻痺」と呼ばれた)を発症し、右脚が不自由な「障害者」だったのです。父は、旧制中学を受験しますが、当時の中学校はすでに軍人養成機関の一部となっていたからか、不合格でした。また徴兵検査では『兵役免除』という結果でした。多くの同級生が入隊して中国や東南アジア方面へ出兵していくなか、『お国のために役に立たない』というレッテルを貼られたことが悔しくて悔しくて、志願して南満州鉄道に入社したそうです。
 

冬は極寒の満州で経理の仕事をしていた父に、上司から帰国の指示が出たのは1944年の暮れごろで、「このままでは日本は戦争に負けると思う。いざとなったら大混乱のなか日本に逃げ帰らなければならないだろう。お前(父)は脚が不自由だから逃げ遅れるかもしれない。だから一日も早く故郷に帰りなさい」と。すでに制空権・制海権もない戦況で父を乗せた貨物船は、日本に行くことも大陸に戻ることもできず、機雷に怯えながら日本海を漂い、ようやく敦賀港にたどり着いたのは、ポツダム宣言を受諾した後だったそうです。
 

父は、戦時中の教育が身に染みたままでいたのか、よく「たくさんの同級生が戦死したのに、生き残った自分が恥ずかしい」と言っていましたが、小さかった私は「お父さんが生きていてくれたから僕がここにおるんや。生きていてくれてありがとう」と言うのが精一杯でした。
 

一昨年7月、津久井やまゆり園で多くの「障害者」が殺傷された事件で私たちが気づかされたように、『公共の役に立つかどうか』という価値観が少しずつ広まってきてはいないでしょうか。父は、国家から『価値がない者』と排除されたのに、子どものころ受けた教育によってもたらされた価値観は、理屈ではわかっていても染みついて抜けなかったようです。
 

のんだくれで、厳しくて、負けず嫌いの父でしたが、壮絶な人生を歩んできた父を誇りに思います。と同時に、二度と父のような思いを持つ人間をつくらないよう、教育のあり方を問い続けていきたいと思います。

目次