当時、全人教の報告にまとめた内容は約1年半前の実践でした。初めは、郡人教研究大会で報告し、数ヶ月後に奈人教研究大会、そして翌年に全人教研究大会ということで、報告原稿を提出する度に少しずつ内容を整理していくものの、時間の経過とともに、過去の話をしている感覚がより強くなっていきました。しかし、その時間的な遠さにより、自分の実践を少し客観的にみることができ、「あのとき、子どもへの関わりはあれでよかったのか」「自分の立ち位置は本当にまちがいではなかったのか」と何度も確かめることができました。繰り返す同じ実践の報告であっても、幾度の確認により、自分の感覚が磨かれたようでした。
そして、全人教での報告当日。500人程が入るであろうホール前方の舞台に用意された報告者席の椅子に座り、全体を見渡すと前の席はほとんど埋まり後ろに少し空席があるのがわかりました。その瞬間、心臓の音が大きくなったのを覚えています。20分の報告を終えて、質疑応答に入り数人からの質問に答え、やりとりをすると場が落ち着きました。その後、再び手が挙がり始め、参加者それぞれが日頃の取組を交えながら報告の価値を見いだしてもらいました。その中で「先生は学級通信を、子どもたちへのラブレターのように書いておられるとおっしゃいました。きっとレポートにもあるように『愛おしい』気持ちを抱いて書かれていたんだと思います。それに加えて、お家の人にも先生の中に『愛おしい』に似た感情があって、それを受け取り、関係を築けていった保護者の人もいたのではないでしょうか・・・」という言葉をもらいました。そのように、参加者の言葉に自分が気づいていなかった視点や抱いていなかった感覚があり、報告者として学ぶ機会となりました。 最後に行われた総括討論では、始まった途端、何人もの人が手を挙げ始め、発言する一人ひとりの言葉の力強さに胸を打たれました。与えられたわずか数分に自分の思いを込めて話される何人もの姿は、その会場を熱気に包むものでした。
気になる子どものことを想像すると、やむにやまれず家庭訪問へ行ったり、明日の準備に一層力が入ったりします。その取組をしているときは一人では心折れそうになる時もありますが、なかまがいるとなると踏ん張れる時もありました。私にとって、そんなエネルギーをもらえる機会の一つが分散会での報告でした。奈良に帰って、またがんばろうと思い立てた2日間でした。