2002年度 などちゃんのアイドルトーク 01

 

7月号 「W杯が教えてくれたこと

W杯サッカーに明け暮れた6月が終わりました。

日韓共催で行われた今度のW杯は、日本の大健闘と韓国の大躍進の中、多くの感動を私たちに与えました。また、テレビの高視聴率や「ベッカム」という本が一番売れている話題もありましたが、見落としてはならない「もう一つのW杯」を考えたいと思います。

今度のW杯には、195の国・地域が予選大会に参加しています。これは、オリンピックよりも多い参加だそうです。サッカーはボール一つもあれば、何人もの人々が遊び・競技できる貧富の差を問わない、数少ないスポーツの一つならではと思いました。

そうした多くの国が参加したこと以上に、一つのチームが、様々な文化を持つ人々によって編成されていたことに注目しました。日本チームは、三都主選手のように、国籍を取得して出場する例がありますが、国籍取得のハードルが高く、まだ極わずかです。一方、外国にルーツをもって日本で生まれ育った選手はというと、在日コリアンの選手がいたと言われています。しかし、そうした出身者がいても当たり前なのに、未だ明らかにされず、隠さなければならないことに、差別の実態があると言えます。国際化と言われながら外国との違いを強く感じました。

日本が決勝リーグに進出できることが決定して日本国中が沸いている中であっても、プロ野球に多くの観衆が集まって、サッカーほどでもありませんが沸いていたことに、なにかほっとしました。W杯で「日本全体が一つになった」とマスコミは騒いでいましたが、そうでないことに安堵感をもった人は、少なくなかったと思います。人間の多様性が認められる社会でなくては、人権の確立はあり得ないからです。

ところで、このW杯を支えてきた一つが、児童労働であったことを忘れてはなりません。

W杯の公式ボールは、パキスタン東部の都市シルアコットという街で主に生産されています。一日働いて3個のボールを縫い上げて、工賃は3ドル弱という低賃金です。かつてこの街で生産されたボールの多くは、子どもたちの手によるものでした。97年の調査で、7千人から8千人の子どもたちがサッカーボールづくりに働いていたことが明らかになっています。

児童労働は、「発展途上国」の問題ではありません。安い労働力を得ることによって、多くの利潤を得る「先進国」の問題と言えます。こうした実態を前に、10年ほど前から児童労働が、国際的な批判の的になりました。子どもの権利条約が制定された後です。NGOなどの働きにより、FIFAも96年から自主規制を始めました。98年から町ぐるみで児童労働撤廃運動が始まったといいます。そして、ILO等の援助で学校が建設され、保護者への資金援助もされました。この取組によって、サッカーボールの生産に児童が関わることが少なくなりましたが、今日でもパキスタン全体では、15歳未満の児童の約1割が、なお様々な職種で働いているといいます。

児童労働の問題は、かつての日本にもありました。安い児童労働や女性労働に支えられてきた産業が多く存在し、被差別部落の子ども達も、家の生業を支えるために働きました。戦後日本の野球は、被差別部落の労働力に支えられてきたと言われています。なぜなら、三宅町のある被差別部落で生産されたグローブ・ミットの数は、全国の8割を超えていましたし、スパイクシューズも同様の生産量をあげていました。こうした生産に、多くの子どもが携わっていました。ちょうど、パキスタンでサッカーボールが生産されている実態と重なります。部落問題は、国内における「南北問題」ともいえそうです。

成功のうちに終わったW杯ですが、人権教育の課題が見えた6月だったと思います。